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三井寺
三井寺


基本情報
1 山名 長等山
寺名 園城寺
通称 三井寺
都道府県 滋賀県大津市
位置 N35.00.48/ E135.51.10 
住所 2万5千分の1地図「京都北東部」
20万分の1地勢図「京都及び大阪」
7 区分 西国三十三箇所
参拝記録
山歩No 8150-12054
登山日 2012年12月9日(日)
歩程 1時間30分
天候 晴れ
形態 日帰り
アプローチ 京阪電車坂本線三井寺駅下車
パーティー 1人

 三井寺には、比叡山に登った翌日、いったん京丹後のカニの宿に宿泊して山岳部の納会をやったあと、横浜に帰る前に京都・大津を散策して訪問した。京阪電車のホームページを見ていた際に、大津線・坂本線に乗り降り自由の切符の存在を知った。 これなら、石山寺と三井寺を同じ日に訪問することが可能である。 本来、三井寺は位置的には坂本から京都に帰る途中でよるのがもっとも効率がいいのだが、一日前の比叡山登山の日には、その日の夕方までに京丹後の間人に行って山岳部の納会に参加する必要があったので、スキップせざるを得なかった。電車で京都に戻ってきた後、京阪電鉄で石山寺を訪問。 14時20分、今度は坂本行きの電車に乗り込んで三井寺を目指す。

三井寺駅へ

 坂本行きの電車は浜大津までは電車路線を走るが、そこから先は、いわゆる路面電車として自動車と同じように信号に従いながら走っていく。京津線・石山坂本線は軌道法の適用を受けてはいるが、小型の普通鉄道タイプの車両が走行している。大都市の通勤電車イメージの京阪本線などとは異なった雰囲気を持っている。 三井寺の駅は結構町の中の駅。 下車した方が、Icocaの精算機にタッチして改札を出て行ったので無人駅かと思ったが、一応女性の駅員がいた。 「湖都・古都おおつ1day切符」を見せて下車。

琵琶湖の疎水

 駅の外に出ていた「三井寺0.5km」の看板の案内に従い、琵琶湖の疎水沿いに歩く。琵琶湖の疎水はとは、琵琶湖の湖水を、京都市へ通ずるために作られた水路(疏水)である。水道用水として使われるだけでなく、工業用に水力発電が行われていた時代もある歴史的な建造物である。もう今から30年以上も前に父親につれられて京都の寺社を散策したときに始めて疎水というものを見た。 あれは、南禅寺であったろうかそれとも哲学に道の途中であったろうか? 今となっては覚えていないのだが、19世紀に琵琶湖の水を京都に持ってくるための大工事が行われたということだけは覚えた。眼下に見ているおそらくここからが大津閘門となって 第一トンネル(2436m)につながるところであろう。疎水自体に鉄柵が張り巡らされているので中に入ることはできないが、柵の隙間からトンネルの入り口を眺めて写真を撮ることができた。 目にまばゆいほどの紅葉が見えた。

三井寺総門

 疎水の脇から、三井寺の観音堂に上がるルートの表示を見ることができた。観音堂は後から行くことにして、まず三馬神社の横から総門を入り、14:50受付で拝観料を払って、係りの人が初めての人にお勧めの拝観ルートを教えてくれたのでその通りに進む。平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
 

観音堂展望台より比叡山を見る

 最初に水観寺という入母屋造の祈祷拝殿に寄ってお参りをする。西国薬師霊場第四十八番札所になっているところだ。11世紀に建てられた別院だそうだ。ここでもご朱印をしてくれるそうだ。やはり西国三十三箇所だけではない。水観寺を出て、右に曲がり、長い階段を登る。 階段の途中に雷妙坊という僧兵の修行の坊跡の祠があった。 さらに紅葉の落ち葉を踏みしめて西国代14番札所の観音堂に行く。 その先は展望台になっていたので先にそちらに上がってみる。 大津そろばんの丘と名づけられた展望台は比叡山の眺めが見事だった。

観音堂西国代14番札所

展望台から降りてて手を洗って拝殿に上がる。靴を脱いで中に入ることができる。 ここにご本尊の弥勒菩薩があるのだろうか?実際にこの建物は元禄2年(1689年)に再建されたものだという。お堂の外からは琵琶湖の巣晴らしい眺望が広がっていた。 お参りをして納経帳にご朱印をもらう。 そのあと鐘楼にあがって鐘を一回つかせてもらう。 石段を降りて、坂道を下りると脇に衆宝観音というあぐらをかいた観音様の像があった。 お参りをしてお金もちになれるように祈る。左手に毘沙門堂がある。 朱塗りの小さなお堂だ。

微妙寺

  坂を下りきったところが千手観音のある微妙寺。 ここは正暦5年(994)の開基だというから古い。重要文化財に指定された檜の1木造りだ。ご本尊は志賀寺の十一面観音だそうだが、八十二センチのそれよりも金ぴかの千手観音のほうが見た目にインパクトがある。これは日中国交回復の際に友好の証として中国からもらったものらしい。 あがって、千手観音を拝ませてもらう。 くつを履いてもらったパンフレットをリュックの中にしまう。微妙寺を出るとそこに、天台寺門宗本所がある。 ただ、この時間はひっそりしていた。

村雨橋

 勧学院という別院の前を通ると、南北のメインストリート。 途中、村雨橋という石でできた太鼓橋がある。ちょうど、この横に見事な紅葉が色づいた葉を見せていた。三井寺は、歴史上、度重なる焼き討ちの被害に遭ったにもかかわらず、仏像、仏画、文書など多くの文化財を伝えている。また、建造物や障壁画にも近世以降の優れたものが多い。 なお、建造物以外の文化財で、寺内で常時公開されているものは奈良時代の梵鐘(重文、通称弁慶引き摺り鐘)のみである。黄不動像を始め、大師堂の智証大師像2体(中尊大師、御骨大師)と木造黄不動立像、新羅善神堂の新羅明神像、観音堂の如意輪観音像、護法善神堂の鬼子母神像などはいずれも秘仏である。

一切経蔵

 順路の表示に従い、唐院、灌頂堂(重要文化財)などを見学。 残念ながら灌頂堂は中を見ることはできなかった。 三重塔は高さはさほどでもないが、なかなか荘厳な造りである。 鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。奈良県の比曽寺にあった塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601年)、徳川家康が再度移築させたものだという。続いて一切経蔵(重文)を見学。 これは室町時代の建築。毛利輝元の寄進により、慶長7年(1602年)、山口市の国清寺の経蔵を移築したものだという。 建物の中は暗くて照明がないので少し暗くて天井の飾りつけなどはいまひとつはっきりと見ることは難しい。本堂に向かって歩く。 途中で開祖の廟に寄ったので順路が逆になったが大なべや梵鐘を見る。 梵鐘(弁慶の引き摺り鐘)-金堂裏の霊鐘堂に所在。「三井の晩鐘」の鐘とは別のものである。無銘だが、奈良時代に遡る日本でも有数の古鐘である。伝承では、俵藤太こと藤原秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われ、その後比叡山と三井寺の争いに際して、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという。

閼伽井屋の彫刻

   三井寺の名前の由来となった井戸は「閼伽井屋」といって、天智天皇、天武天皇、持統天皇の三兄弟が産湯を使ったところだという説が残っている。「閼伽井屋」の天井には左甚五郎が彫ったとされる竜の彫刻がある。 この竜が魂を宿して夜な夜な琵琶湖で暴れるので甚五郎は自分の眼をくりぬいて竜を沈めたという。この逸話は寺のどこかに記載されていたのではなく、たまたま「閼伽井屋」を見学しているときにこの竜の彫刻を見ていた団体観光客を連れていたバスガイドさんが説明していたものである。

金堂と紅葉

   金堂のつくりは立派である。靴を脱いで中に入ると、たくさんの仏像が飾ってあった。 中には、台座だけがあって、仏像がなくて、「ただいま大津市歴史博物館に行っています。」というような看板がつけられているものもあった。さすがに国宝だということもあってあらゆるところに監視カメラがつけられている。金堂を出ると、今度は鐘楼(重要文化財)を見る。 これが「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊る。この梵鐘は慶長7年(1602年)の鋳造で、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘に数えられている。重さは2250kgで近江百景にも加えられているそうだ。鐘楼から急な階段を下りきると金堂の東側に出る。ここにあった紅葉が素晴らしい色を見せていた。 もう、紅葉のシーズンも終りであろうが過ぎていく秋を惜しむかのように金堂の茶色の屋根とのコントラストを作っていた。

大門から退出

   15:50に寺を出る。 順序が逆転してしまったかもしれないが、重要文化財の大門を抜けていく。 徳川家康が寄進したといわれる大門(仁王門)は二階建ての立派な門である。 横に寺の拝観料を徴収する入り口があり、看板に「無用の者の夜間の寺院への立ち入りを禁ずる」と書かれていた。門を出て駅まで歩く。この本通りは門前町というにふさわしい景観で、ゆるやかに坂を下りていきながら周りに大きな観光バスが停められるような駐車場やおみやげ物屋を併設したようなレストランを見ることができた。 自分が入ってきたのはどうも裏口で、こちらが表玄関のような感じだ。

京阪京津線で京都へ(車内にあった昔の車両の写真)

  三井寺の駅に戻り、(今度は駅員はおらず、そのまま浜大津行き車両が来るホームに直接上がる。)5分ほどで来た石山寺行きに乗車し、浜大津の駅で乗り換え。 京都方面行き電車の到着を待っていたが、最初に1番線に来た電車は16:00発の坂本行きだった。 京都市営地下鉄に乗り入れる電車は16:04の次の電車だったが、坂本に行く電車と異なり4両編成だった。京津線は4両編成の車両が京都市中心部地域では地下鉄(京都市営地下鉄東西線)に乗り入れ(相互乗り入れではなく、片乗り入れ)、京都府と滋賀県との府県境にあり、旧東海道の難所でもあった逢坂山付近では、登山電車並みの急曲線・急勾配を走り抜け、滋賀県大津市中心部地域では、路面電車のように国道161号線上の併用軌道を走るという日本で唯一、地下鉄・登山電車・路面電車という3つの顔(京都市営地下鉄東西線との共同駅である御陵駅と旧御陵府道踏切(三条通)との間は、地下線)を持つ路線である。興味深くそろそろ傾きかけた太陽に照らし出された京都東部の景色を車窓から眺めながら京津線に揺られて京都まで帰る。

三井寺は建造物よし、仏像よし、庭園よしと三拍子そろった寺だと思う。 近世に豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるというのが信じられない。 敷地面積も結構あるので、半日くらいかけてゆっくり散歩するのがよいだろう。 今回は特に比叡山の美しい写真を撮ることができたのも思わぬ儲け物であった。 
(2012年12月 記)

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地図の引用画像は国土地理院発行の数値地図50000(地図画像)と数値地図50mメッシュ(標高)を利用しています。(この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。承認番号  平13総使、第301号)
登山ルートの俯瞰図は、DAN杉本氏の開発したソフトウエア「カシミール3D」にて作成しています