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竹田城
竹田城(虎臥山)

基本情報
1 山名 竹田城・虎臥山(たけだじょう・とらふすやま)
標高 354m 
山域 播州高原
都道府県 兵庫
位置 N35.18.89/ E134.49.44 
地図 昭文社 山と高原地図53「氷ノ山・鉢伏・神鍋」
2万5千分の1地図「但馬竹田」
20万分の1地勢図「姫路」
7 山岳区分 ハイキング百選・日本百名城
登山記録
山歩No 9750-17026
登山日 2017年11月18日(土)
歩程 2時間20分
天候 曇り
形態 日帰り
アプローチ 播但連絡自動車道朝来ICから国道312号
パーティー 5人

昔は兵庫県に住んでいた。 2001年から2003年まで神戸市民だったので、その時にいくつかの県内の山に登った記憶がある。 朝来市には段ヶ峰があるが1992年10月25日に登っている記憶があったので、その前に西宮市民だったときのことである。 段ヶ峰から北西にあるのがJR竹田駅であり、その西側に虎臥山がそびえている。 竹田城跡はその虎臥山の山頂にある。山城遺跡として全国でもまれな完存する遺構であり、虎が臥せているように見えることから「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」とも呼ばれている。晩秋のよく晴れた早朝に朝霧が発生することがあり、但馬地方の風物詩となっています。この雲海に包まれた姿は、まさに天空に浮かぶ城を思わせ、いつの間にか「天空の城」・「日本のマチュピチュ」とも呼ばれるようになった。

新幹線で大阪へ (祝! HPアクセス3000突破)

11月17日(金)夕方18時過ぎに会社を出る。 家について軽くスープを飲んで20:20に出発。 新横浜からのぞみ号に乗る。 指定席の隣の席には東京からR.Mさんが乗っているはずだったが、いない。 先ほどコンビニで買い物をしているときに着信があったが電話に出られなかった。 あとで聞いたのだが新幹線を乗るまで少し時間があったので東京駅の近くで先輩と飲んでいて社員証を落としてしまったらしい。 探している間に新幹線の発車時刻となり乗車をあきらめたということのようだ。R.Mさんと席を隣同士にして新大阪までゆっくり飲もうとしこたま買い込んでおいた酒は一人で飲むことになった。23:17新大阪着。 阪神梅田の駅から歩いて10分ほどのところにホテルはある。 カプセルホテルの少し高級な感じだ。 大浴場で風呂をあびて、残った酒を飲んで24:50就寝。

中国自動車道社PA

11月18日(土)朝6:30。 眠い目をこすりながら1Fに降りるとロビーにR.Mさんが待っていた。 2人で徒歩で出入橋のすぐ横のレンタカー屋に行って予約してあった車を受け取る。 24時間営業ですぐに車を出してくれたので助かった。 そのまま福島駅へ行って、九州から来るM.Aさんを待つ。 天気予報が雨なのが木になる。 はたして今日は山に登るのだろうか? ナビの示す通りに阪神高速を池田まで行って176号線から宝塚ICへ。 そこから中国自動車道に入り、社PAで、今回のリーダーのA.Dさんの車と合流。 示しあわせたわけでもなかったが、我々の車が到着して5分と経たないうちにA.Dさんの車も到着した。

JR播但線竹田駅

雨がぽつぽつ降っており天気予報でやむ気配もないので、 やっぱり山は中止となり、代わりに竹田城+植村直己冒険館に行こうということになった。 今日一緒に行くはずだったA.Kさんは仕事の都合で宿に直行ということになったので観光して合流ということに決まる。福崎JCTから播但自動車道に入り一路北を目指す。朝来ICで降りて国道312号線を円山川に沿って北に進むとJRの竹田駅が現れた。 竹田城はここから歩くコースとなる。 
 

山城の郷から進む

駅前で駐車場を探したが適当なところが見つからなかった。 案内図で見るとここから北西に5kmほどいった和田山町の「山城の郷」が竹田城の観光のベースになるようである。 大きな駐車場もここにあるようなのでそこに行ってみることにした。 山城の郷は竹田城に最も近いレストランや売店を備えた休憩所である。きれいなトイレもありマイカーできた観光客はここに車を停めて、天空バスといわれるバスに乗り換えて城跡に向かう。 我々は登山の代わりなので歩いて登ることにした。 幸い、雨もやんでいる。

入城-竹田城北千畳での写真

2kmほど歩くとトイレと売店が見えた。 ここが大手門で、ここから歩行者専用の道を歩いていくことになる。 しばらく歩くと収受所があり、入場料を支払う。立雲峡と呼ばれる向かいの山から見る雲に浮かぶ竹田城が幻想的で東洋のマチュピチュといわれる所以であるが、ちょうど収受所の横にその幻想的な写真が貼ってあった。 我々もその前に並んで、まるで雲に浮かぶ竹田城を見ているかのような記念写真を撮影する。

南千畳から見る朝来の街

早速北千畳から三の丸へと進む。 竹田城跡の石垣は、大小さまざまな石材を組み合わせる「野面積み」という石積み技法が使われており、近江(現、滋賀県)の穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団により築かれたと言われている。 三の丸の枡形虎口は敵の侵入を防ぐ守りに役立ったのであろう。 三の丸虎口にある急こう配の階段。防御性を高めるためのものと考えられている。天守台の石垣は立派で梯子を使って上がると頂上からの眺めはなかなかのものだった。 南千畳が広がる先に雲が見えるので結構景色を楽しむことができた。

豊岡市立植村直己スポーツ公園の紅葉

竹田城の見学が終わり、再び歩いて山城の郷まで戻る。 ここで昼食タイムとなる。 弁当を買ってきていないR.Mさんと私はレストランに入り、元気丼というものを食べた。 昼食がおわり和田山ICから和田山八鹿道路に入る。 終点の日高神鍋高原で降りて482号線を西に進んだところに植村直己冒険館はある。 ここに来るのは2回目である。 前回はもう10年以上も前だったのだろう。植村直己冒険館のまわりは自然公園になっているが紅葉がひときわきれいであった。クレバスを模したというコンクリートの高い壁が今回もわれわれを迎えてくれた。

植村直己冒険館の高い壁

国民栄誉賞を受賞した世界を代表する冒険家植村直己を顕彰する施設として1994年4月にオープンした。 これは植村直己が冬のマッキンリーで行方不明になってちょうど10年後のことである。展示室・映像ホールは北極での住みかのイグル―をイメージしているらしい。展示物は登山靴・ピッケルといった登山の用具はもちろんであるが、石油コンロが気になった。 白ガソリンを入れて加圧して使うものであるが、今では登山でこれを使う人など見たことがない。 道具の進歩とともになくなってしまったものである。 固形燃料のメタを見たのも20年ぶりだったかもしれない。

犬ぞり体験

植村直己冒険館には植村直己が北極を犬ぞりで横断した時の体験の模型が置かれている。 たった一人でオーロラの台地にテントを張って寝るというのはどんな気持ちだったのだろう。 自分などは植村さんに比べるべくもないが、それでもたったひとりで誰もいない原野にテントを張って寝たことがある。 秋田駒ヶ岳でビバークしたときもそうであるし、白山中宮温泉で翌日早朝から笈ヶ岳を登るというときもそうであった。 この竹田城にやってきた2週間前も福島の大滝根山に登るために仙台平で車中泊したときもそうであった。 何かさびしいのだがそれでも少しワクワクする気持ち。 これが冒険の醍醐味なのかもしれない。

マッキンリーから寄せられた果実

行方不明後にキャンプで発見された日記には登頂アタック前の最後の日付で「何が何でもマッキンリー、登るぞ」と書かれていた。どこまでも冒険を目指す強い心を持ちながら、そしてエベレストではサポートしてくれた人のためにカメラを捨ててでも石をもって帰る心の優しさを備えた植村さんの人柄を改めてしのぶことができた。 植村直己冒険賞を受賞された人たちの功績が紹介されたコーナーの横から冒険館の中庭が広がっていた。 中庭にはたわわになった柿の実が見えた。 まるで植村直己の冒険スピリットが一つの種となり、そして後輩たちがに果実をつないでいくかのような象徴的な景色であった。

民宿でのカニの宴会

植村直己冒険館を出た我々は、豊岡の駅に立ち寄り、A.Kさんをピックアップ。 これで今夜の宴会の全メンバーがそろった。 スーパーで酒やつまみの買い出しをして宿には早めの16時半に入り、早速風呂に入る。 夕食はお決まりのカニのフルコースである。 焼きガニは甲羅に日本酒を入れてあぶって飲むのがうまい。気がついてみたらお銚子を20本も頼んでいたようだ。部屋に帰ってからも応援歌を歌ったりしていつもの納山会の恒例行事は深夜まで続いた。


琴引浜
 
 翌朝、旅館の朝食をたくさんいただき、鳴き砂で有名な琴引浜へ行ってみる。 かつて日本の海岸の多くは鳴砂の浜であったと言われてるが、海浜の汚染や海岸の開発などにより、白砂青松といわれた海岸な少なくなり、現在、鳴砂の浜として確認されているところは、全国で30ヶ所余りとなっているようだ。 天気が今一つで海岸が美しいという感じはしなかったが、日本海の荒波が寄せる雄々しい浜で、遠くに依遅ヶ尾山が見えた。雨が降り始めてきたので引き返す。 

京丹波PA味夢の里

 帰りに宿で紹介された水産店でお土産を買って、一路、京都縦貫道で大阪を目指す。 途中、京丹後PAで帰りの新幹線の中で味わう日本酒を買う。 ということでPAでA.D夫妻とはお別れ、大阪で無事にレンタカーを返却して九州に帰るM.Aさんを見送って、関東組は新大阪で柿の葉ずしとカツサンドを買って新幹線車内でビール・チューハイ・日本酒・ワインというフルコースと会話を楽しんで帰った。  


 登山を始めてもう39年になる。 たくさんの山に行ったが自分の山登りはどのくらいの内容の濃さなのだろうか? 植村直己の登山人生は25年くらいだった。 かの冒険家のような有名な山・常人では近づくことができない山に登ったことなどは全くないが少なくとも登った山の数だけはかなり自分のほうが多いのかもしれない。 知恵と勇気と情熱と何をとっても世界的な冒険家に及ぶことはこれからも決してないだろうが、それでも、小さな山を自分なりのスタイルで登っていることを記したこのウェブサイトを見て何かを感じ取ってくれる人たちがいるなら、それはそれで自分も一人の小さな冒険家といえるのかもしれない。あらためて自分の人生を見つめなおした今回の旅行であった。 

(2017年12月 記)

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地図の引用画像は国土地理院発行の数値地図50000(地図画像)と数値地図50mメッシュ(標高)を利用しています。(この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。承認番号  平13総使、第301号)
登山ルートの俯瞰図は、DAN杉本氏の開発したソフトウエア「カシミール3D」にて作成しています