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小谷山
小谷山

基本情報
1 山名 小谷山(おだにさん)
標高 495m 
山域 伊吹山地前衛
都道府県 岐阜・滋賀
位置 N35.27.56/ E136.16.24 
地図 昭文社 山と高原地図「」
2万5千分の1地図「虎御前山」
20万分の1地勢図「岐阜」
7 山岳区分 ハイキング百選・新花の百名山
登山記録
山歩No 9680-14025
登山日 2014年6月1日(日)
歩程 1時間30分
天候 快晴
形態 日帰り
アプローチ JR北陸線 河毛駅より
パーティー 1人

小谷山は悲しい戦国の歴史を物語る山である。 小谷山というよりも日本五大山城の一つに数えられる小谷城が有名で標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城である。 折角長浜を訪れたので旅の最後にこの悲話にあふれた城と山を訪ねてみようと思った。

小谷城戦国資料館

6月1日(日)、6月とはいえ、最高気温が30度を超える暑さの中、朝は近江汽船で竹生島を訪ね、そしてレンタカーを借りて午後、関西百名山のひとつである金糞岳に登った。 岐阜県の揖斐と滋賀県の高山を結ぶ鳥越林道は全線舗装されており思ったよりも走りやすかった。東俣谷川に沿って草野川沿いに走り、来るときに通った谷坂隧道から郡上へ出るともう小谷山の麓である。 小谷城戦国資料館をナビの目的地にして16時半に到着。 資料館は17時閉館最終受付が16時半である。

時代劇のロケ

資料館の前には、登山者のための駐車スペースも用意されていた。 金糞岳から下山したそのままの格好で登山口へ行く。 中庭のような広場では、甲冑をつけたエキストラ俳優さんたちが、殺陣を演じていた。 おそらく大河ドラマの軍師官兵衛の一場面であろう。切りこむ俳優さんが「善助!」と叫ぶセリフがあったので黒田官兵衛の家臣「栗山利安」が戦っているシーンなのであろう。 21世紀の世界からタイムスリップしたような感覚でわくわくしながら小谷城への登山口へ歩を進める。  
 

登山口

城門の横から登山口を目指す。 クマ出没注意とあるが本当にこんなところでクマが出るのだろうか? 道は城跡を目指す駐車場からの道と合流して階段づくりの登道となる。 1573(天正元)年8月、越前(福井県)の朝倉義景を滅ぼした織田信長は近江にとって返し、浅井長政の本拠、小谷城(滋賀県湖北町)への総攻撃を命じる。 父・久政自害の後、本丸を打って出た長政も、赤尾屋敷で自刃した。翌年正月、信長が朝倉と浅井父子の頭骨を薄濃(はくだみ)(漆塗りにして金泥で彩色すること)にして酒宴のさかなにしたのは有名な話だ。

望笙峠

間柄峠址をすぎると、金吾丸という四段の土塁の城跡があるが、登山道はその下をまくようにして進む。 標高200mほどのところに望笙峠がある。ここは長浜市のホームページにも記載されている景観の場所である。 中腹にある望笙峠は、竹生島が最もよく見える場所として小谷城趾保勝会により名付けられた場所で琵琶湖に浮かぶ竹生島を正面に望むことができる。さきへのルートは柵で閉鎖されており、」「松茸山につき入山を禁ずる」の表示が。 なるほどここは私有地なのだ。 

桜の馬場

16:56に番所跡に到着。 ここが、城の入り口であろう。 この隣には、舗装道路が続いており、ここまでは車で来ることができるのだということがわかった。 さらに数百メートル進むと御茶屋跡、馬洗池、御馬屋跡と、城門の手前で馬を飼っていた名残の土地を見てとることができた。桜の馬場はその名の通り、馬を走らせることのできるほどのスペースだった。 このような山の中腹にこれだけの平地を作るのは当時としては大工事であったのだろう。 夕刻であるにも関わらず、2組ほどの観光客がいた。

大広間跡

ここから帯状になっている曲輪伝いに東に回り込むと浅井氏の重臣だった赤尾氏の屋敷があった場所に行ける。。ここは、浅井長政が小谷城落城の際に自刃した場所と伝えられているところだが先を急ぐので、立ち寄らずに本丸を目指す。 大広間跡。別名千畳敷ともよばれる小谷城最大の曲輪である。礎石らしき石の跡や、井戸の跡などが確認できる。 本丸までは杉林のようなたたずまいだ。 ここから本丸方向へはゆるやかな登りになっている。 本丸は大きな城壁の上に立つ小高いスペース。 のぼりが急なので土塁がおいてある。  

山王丸から虎御前山を眺める

本丸から先に行けるかと思いきやそこからは絶壁になっていたので、いったん大広間方向に戻って、中の丸を目指す。 さらに先が小丸。二代城主、浅井久政が隠居後に居住したところと伝えられているところである。 これらの建物跡を抜けると山王丸と呼ばれる広場があった。ここが一番小高くなっているところ。先に小谷山の山頂が見える。 まだ標高差で数十メートルはありそうである。  。 

大嶽城跡のある山頂を見る

道はいったん下りとなり、この鞍部が清水谷コースとの合流点だった。帰りはこの道を通って小谷城戦国資料館の駐車場へと下ることになる。 ここからは少し急な登りとなる。 木を組んで作った階段を上ると六坊という広場があった。 ここは有力寺院の出張所が置かれていたという。 さらに道は登り坂となって大嶽城跡へと続く。 はじめ小谷城が築城されたときは、小谷山山頂である大嶽城跡にあったそうだ。

山頂まであと300m---下山を決意

山頂まで360mの標識が現れた。 一方時刻は17:30と、麓を出発してから1時間が経過した。 おそらく下山するのに30分以上はかかるだろう。 18時15分には駐車場を出発しなくてはガソリンまで入れてレンタカーを返す時刻に間に合わない恐れが出る。山頂まで行きたい気持ちはやまやまだったが、本日はここまでとあきらめざるを得ない。 のぼりの階段でセルフタイマーで写真を撮影し、ここをもって自分のピークとする。 (あとでGPSで調べてみたら山頂まで距離で300m、標高差で31mのところであった。)


清水谷へ

清水谷との分岐まで戻って、そこから樹林の中を下山開始。 おそらく時間的には30分ほどで駐車場まで下れるのではないかと見積もる。 沢沿いの道なので最初の傾斜が少し急であったが、中部北陸自然歩道に指定されている道なのでよく整備されており歩きやすかった。途中、浅井氏の重臣の大野木屋敷跡などがある。 昔の重臣はこの道を通って登城したのであろうか? 雨の日などはきっと休みたかったことだろう。


下山---再び長浜へ向かう

18:00に無事に小谷城戦国資料館の駐車場に下山。 着替えて、レンタカーを返すので、ごみを片付けて、18:10に出発する。 軍師官兵衛のロケチーム(と勝手に解釈しているのだがはもうそろそろ日没だというのにまだ演習をしていた。 今日のような30度を超える最高気温の日に甲冑をつけて相当に消耗したことだろう。中には侍姿の身みまとった女性もいた。 夕闇迫る中、長浜へと向けて車を走らせる。レンタカー返却後スーパーで弁当とビールを買い長浜から新快速に乗って米原まで行き新幹線に乗車。こだま号の自由席で独りぼっちの夕食を楽しんだ。  


小谷城落城前に、信長の妹だったお市の方と3人の娘たち(茶々、初、江)は城を出た。茶々は後に豊臣秀頼を生み、江は3代将軍徳川家光を生んだ。小谷城と浅井氏は落城とともに歴史の表舞台から姿を消したが、小谷の血筋は日本史の中心になった。歴史に思いをはせることのできた最後の山だった。 今日一日で、竹生島・金糞岳・小谷山とホームページの記録を3つもつくってしまった。これも記録である。
(2014年6月 記)

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地図の引用画像は国土地理院発行の数値地図50000(地図画像)と数値地図50mメッシュ(標高)を利用しています。(この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。承認番号  平13総使、第301号)
登山ルートの俯瞰図は、DAN杉本氏の開発したソフトウエア「カシミール3D」にて作成しています