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基本情報
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山名 |
賤ヶ岳(しずがたけ) |
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標高 |
421m (三等三角点) |
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山域 |
行市山地 |
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都道府県 |
滋賀 |
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位置 |
N35.30.21/ E136.11.35 |
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地図 |
昭文社 山と高原地図「」
2万5千分の1地図「木之本」
20万分の1地勢図「岐阜」 |
7 |
山岳区分 |
関西百名山 |
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登山記録
山歩No |
5050-14022
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登山日 |
2014年5月31 日(土) |
歩程 |
2時間20分 |
天候 |
快晴 |
形態 |
日帰り |
アプローチ |
JR北陸線 木之本駅 |
パーティー |
4人 |
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賤ヶ岳は関西百名山の中でも手軽に行ける山だと思っていた。 とはいうもののどこから登ったらいいかということについては詳しく知らなかった。 今年の山岳部の山がマキノの赤坂山であったことから、帰りに賤ヶ岳に寄ることをメンバーに提案。 同意を得られた。 その日の宿を余呉湖沿いの民宿に決めた。 |
賤ヶ岳駐車場
マキノの黒河峠から悪路を降りたわれわれは、そのまま国道8号線に入り、木之本を目指す。賤ヶ岳のリフト下の駐車場に15:40に到着。 20人ほどのハイキングの集団が列を組んで歩いていった。 おそらく、軍師官兵衛のゆかりの地を回るバスツアーの集団ではないだろうか。駐車場には賤ヶ岳古戦場の歴史を語る碑があり、戦国武将マニアの女子グループが興味深そうにメモを取っていた。
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登山道入り口
賤ヶ岳登山口はリフトの乗り口の近くにある。 多くの観光客がリフトを使って上がっていく中、われわれはフトの乗り場のお土産売り場を冷やかしに寄る。 福島正則や加藤清正など、賤ヶ岳5本鑓の名前を書いた垂れ幕の前で記念写真を撮影する。 アルコール類が売っていないかとキョロキョロしてみたが、コーラはあったもののさすがにビールや日本酒はおいていなかった。リフトの前で写真だけ撮って、登山道に入っていく。 |
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リフト終点から展望台への登り
登山道はジグザグに杉林の中を進んでいく。 よく踏まれたしっかりしたルートで歩きやすい。途中で2か所リフトを横断するところがある。頭上注意しながら横断する。頭をぶつけるほどではないが、もしリフトに人が乗っていたら要注意である。渡った後もジグザグが続く。 やがて、リフトの山頂駅が見えてくる。リフトで上がったとしてもその山頂駅から賤ヶ岳山頂までは15分歩かなければならない。ハイヒールの観光客カップルが歩きにくそうに木道の階段を下ってきた。 |
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展望台で記念撮影
山頂は大きな塔のある展望台に到着。展望台にはコーラやお茶を売る自動販売機があった。展望台には事務机もある。この自販機や事務机はいったいどうやって運んだのだろうか?先に大きな古戦場の看板があって、ボランティアガイドの方がいらっしゃった。この方が賤ヶ岳の合戦の歴史をいろいろ話してくれた。羽柴秀吉と柴田勝家の壮絶な戦いは実際にはこの賤ヶ岳よりも少し北で行われたようだ。
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古戦場跡地の看板
天正10年(1582年)3月12日(5月3日)、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、秀吉は織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、3月19日(5月10日)には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した。大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmを僅か5時間で移動し、僅かな時間で帰還した秀吉の大軍に驚いた佐久間盛政は同深夜に撤退を開始するものの、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲された。世にいう秀吉の美濃返しである。 フットワークの軽く人望もあった秀吉には現代人は見習うべきところが多いように思う。
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浅井三姉妹パネル
山頂からは北湖がよく見渡すことができた。傾きかけた太陽に照らされT湖面が輝いていた。明日訪問する予定の竹生島もしっかり見えた。稜線から南に山本山がきれいに見える。東にはどっしりとした伊吹山がその姿を余すところなく見せていた。山頂には槍を持って休憩する若い侍の銅像があった。山頂の最も北西にトイレがありその手前に三等三角点があった。その前には浅井三姉妹の記念写真パネルがある。顔を出して記念写真を撮る。山頂から北側には余呉湖がを見下ろす。
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余呉湖を見下ろす
余呉湖は琵琶湖の北側に位置する。日本最古とされる羽衣伝説の地として知られる。豪雪地帯の湖なので、冬は凍結してワカサギ釣りのメッカのようだ。琵琶湖とは、賤ヶ岳(標高422m)で隔てられているが、放水路の一つが流れ込んでいる。1970年頃より、琵琶湖から水をポンプアップするなどの施策が原因で富栄養化が進み、問題となっている。面積は1.8平方キロ、周囲は6.4キロメートルだ。 湖面は静かである。今夜の宿となる余呉ふじとぴあは湖の西の岸にある。
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琵琶湖と山本山
山頂の記念碑「賤ヶ岳七本槍古戦場」の標識は木でできておりなかなか立派である。山頂からは北東に尾根が延び、その先には中川清秀の墓がある大岩山がある。北西には尾根が延びその先には、行市山(660
m)がある。南には琵琶湖東畔に沿って尾根が山本山(324 m)まで延びる。 この稜線に沿ったハイキングコースもなかなか人気であるようだ。 メンバーの中の一人のK.Dさんはかつて琵琶湖一周を歩いて成し遂げた方なので、琵琶湖の地理に詳しい。 |
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下山開始
賤ヶ岳リフトは近江鉄道グループによって運営されている。近江鉄道の制服を来た人がそろそろ下りのリフトは最終ですよと声をかけに来てくれた。 われわれの登山の恰好を見て歩いて下るのだろうとは想像していただろうが。17:00に太陽も傾きかけてきて、本日の行動の終了となる。 大阪に帰る3人は往路を引き返して車に戻り、私は一人、北の余呉湖におりて今夜の宿である余呉ふじとぴあに宿泊である。同行者たちと握手をして近いうちに山での再会を約束。余呉湖への道を進む。
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国民宿舎余呉湖荘
余呉湖賤ヶ岳山本山歩道というのが、このハイキングルートの正式名称らしい。途中、飯浦との分岐を経て、およそ25分で国民宿舎余呉湖荘の跡地まで行く。 昨年秋まで営業していたこの国民宿舎も、建物の老朽化が進み40年の歴史に終止符をうったようだ。 国民宿舎は、公営のものについては財政投融資計画にもとづく厚生年金保険積立金還元融資や特別地方債の起債が認められ、民営のものについては中小企業金融公庫から増改築の資金が融資されていたが、それらの制度が終了し、利用者の減少・老朽化・行政改革等により廃止される施設も出てきているという。
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宿に到着
余呉湖畔を歩く道は気持ちの良い車道で、ところどころに湖畔の遊歩道がつけられている。 余呉ふじとぴあまで歩いて約20分。 釣りをしている人の様子を見たりしながら鼻歌をうたい天女伝説の湖の散歩を楽しむ。 余呉ふじとぴあはもともと企業の保養所だったものが外向けに営業を始めたものらしい。 確かに受付で名前を書いたシートには、部署名という記載項目があった。荷物を置いて大浴場で入浴。 幸い、他のお客さんは入浴を済ませたようで、貸し切りであった。 夕食は山海のものと冷えた素麺。 日本酒の熱燗を楽しみながらいただいた。
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この日は、マキノの赤坂山と賤ヶ岳という2つの関西百名山を欲張った一日だった。 大河ドラマで軍師官兵衛が放送され、この賤ヶ岳も再びクローズアップされる地域となったが、歴史に興味がある人たちが旅をしてそれが地方の観光産業などの起爆剤になればそれはいいことだと思う。 かくいう自分も今年になって滋賀県を訪問するのはもう2回目である。 賤ヶ岳は琵琶湖・余呉湖の2つの大小の湖の景観を楽しむことができ、かつ、古に思いをはせることのできる素晴らしい場所であることを知った。
(2014年6月 記) |
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