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基本情報
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山名 |
東赤石山 (ひがしあかいしやま) |
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標高 |
1706m (三等三角点) |
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山域 |
赤石山地 |
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都道府県 |
愛媛県 |
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位置 |
N33.52.30/ E133.22.30 |
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地図 |
昭文社 山と高原地図54「石鎚・四国剣山」
2万5千分の1地図「弟地」
20万分の1地勢図「高知」 |
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山岳区分 |
日本二百名山、花の百名山、四国百名山 |
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登山記録
山歩No |
2910-12051
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登山日 |
2012年11月26 日(月) |
歩程 |
0時間00分(雨のため撤退) |
天候 |
雨 |
形態 |
山麓1泊 |
アプローチ |
松山道三島川之江ICから国道319号ー県道6号ー筏津 |
パーティー |
1人 |
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勤労感謝の日の連休を利用して西日本の山に遠征するのがここ最近の恒例となっている。 2012年の今年は、松山空港をベースにレンタカーで石鎚山・瓶ヶ森・伊予富士・笹ヶ峰・東赤石山と一挙にこの四国山地の名山を回ろうという計画を立てた。 23日(金)の夜行バスに乗り延々と11時間ゆられて松山にやってきた。 第一段は前日雪雲に巻かれながら登った石鎚山、第二段は昨日のの瓶ヶ森・伊予富士・笹ヶ峰の三連登である。さて問題は最終日の東赤石山だ。 前の晩から雨が降り出している。 |
東赤石山筏津口
11月26日(月)今日は四国遠征の最終日である。 そして、日本二百名山「東赤石山」に登る日でもあった。 しかしである。 朝6:30に眼が覚めると、外は昨晩と変わりなく相当の雨が降り続いていた。 一時間に20mmくらい。 この量はとてもレインスーツを着て歩こうという思いを抱かせないかなり強い雨である。登山者が皆車を停める筏津山荘の駐車場にたたずんだまま、どうしようか考え込んでしまう。 そろそろ日が昇って歩くに支障のない明るさにはなってきている。 しかし、これで瀬場谷の渡渉ができるかとか果たして山頂に行って展望があるのかなどと考え込んでしまう。 おまけに、昨晩は寝ているときに誰もいないはずの暗闇から声が聞こえるという怪奇現象に悩まされたおかげでぐっすり熟睡もできなかった。 |
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筏津山荘跡
7時過ぎまで車の中で半分寝たような状態で考え込んでいたが、雨がやむ気配もないので7時半に撤退を決意する。 今年最後の200名山はお預けである。 また改めて来年以降にリベンジすることとしよう。 帰りの飛行機は19:50松山空港発である。 早割で買っているのでこれを変更することはできない。今日はいつまで雨が降るのかわからないが、次回のために登山口の下見だけはしておいて、あとは観光に当てるとしよう。 そうと決めたら車の中でだらだら寝ていても仕方がない。筏津山荘の前で写真を撮って出発することにする。 この山荘は2012年の3月までは営業をしており、この筏津コースから東赤石山を登山する人にとっての大切な登山基地となっていた。 新居浜市は3月いっぱいで閉鎖を決断。 現在は重機が入って取り壊しが進んでいる。 |
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筏津坑道
ちょうど山荘の裏手が坑道になっている。 こちらが筏津二番抗。観光用の坑道だ。 史跡として筏津抗跡を示す看板にはこう記載がある。 「本舗、余慶、筏津、積善とある別子の四鉱床のうちの筏津鉱床の坑口である。ルイ・ラロックは弟地で本舗とは別の鉱床の路頭を発見し鉱床に沿って斜坑を掘り採鉱する重要性を「別子銅山目論見書」に書き記している。明治11年(1878)に開抗して試し掘りに入る。明治18年(1885)に採鉱場と湿式収銅所の建設に着手し翌年に操業を開始した。最初は弟地抗(おとじこう)と呼ばれていた。明治34年(1901)には休抗となった。 大正5年(1916)に探鉱を再開し大正7年(1918)に鉱床を確認して筏津抗の名で操業を再開した。昭和4年(1929)には第二斜坑の開削を開始し以後下部に向かって進められた。昭和18年(1943)に大立抗と筏津抗下部との間に探鉱通洞が貫通して第四通銅と連絡することになった。昭和20年代に入っての筏津抗の下部開発は別子の産出銅の増加に大きな役割を果たした。 昭和48年(1973)3月31日の筏津抗の終掘で元禄4年(1691)の開抗以来283年間に及ぶ別子銅山の歴史を閉じた。」 |
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旧別子村
19世紀から20世紀の前半にかけてこの小さな村「別子山村」は一時人口が1万人を超えたという。 相当に栄えたわけである。 明治の最盛期には愛媛県内で松山市に次ぐ1万2千人もの人口を擁し、学校・病院・劇場などが整備された。
採鉱の中心が赤石山系を越えた北側、新居浜市の山中にある東平(とうなる)へ移ると瞬く間に衰退した。やがて西日本で最も人口の少ない自治体となり、2003年新居浜市へ編入合併した時は、県内の自治体で最も人口が少なく、愛知県北設楽郡富山村(現・豊根村)に次ぐ、日本の離島以外の自治体で2番目に人口の少ない、僅か277人であった(編入合併後は役所職員の異動などで更に減っている)。まさしく栄枯盛衰を見た村だといえよう。昨晩雨の中で聞こえた声は前世紀の炭鉱労働者のものだろうか?それとももっと昔の平家の落ち武者の霊?
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日浦
筏津杭を出て、車で日浦登山口まで行ってみることにする。 県道47号の新居浜別子線は幅1.5mの湾曲した道。筏津から西に1kmほどいった弟地には、新居浜市の別子山支所があり、そこそこの数の人家があった。 郵便局と駐在所もある。 ここを過ぎてからはもう、まったく家はない。 南光院という紅葉の時期には人気を集めそうなひっそりとした寺院を越えると、道は切り立った崖の横を進む道となる。 すれ違う車もほとんどないが、なぜか新居浜方面から大きなトラックが3台も通っていった。 悪路といわれる大江山トンネルを越えてきたのだろうか? 8:10に日浦に到着。 ここから銅山越えまでは徒歩で1時間40分となっている。登山口には20台ほど駐車できるスペースがあり、循環式水洗のトイレも設置されていた。 日浦から銅山越にいたるルートの途上に小足谷部落跡・接待館跡、小足谷劇場・小学校跡などという史跡が残っているようだ。 新居浜市の東平から、この日浦に歩く銅山越えコースを歩くだけでも歴史に触れた面白い山旅ができそうな気がした。 トイレの前に水道があったので昨日笹ヶ峰に登って相当に汚れている登山靴を洗う。 8:40に日浦を出発。 もときた新居浜別子山線を東に進む。 とりあえず法皇湖を越えて銅山川沿いに四国中央市へ。
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法皇湖
9:00に法皇湖に到着。 ここは富郷ダムというところに掛けられたダム湖である。 法皇山脈に因んで「法皇湖」と命名された。ダム建設に伴い道路整備も行われ公園も整備されている。 とりあえず雨はまだ降っているが、車から降りてセルフタイマーで写真を撮ってみる。 ここからは緑色の水と紅葉のコントラストが見事である。今日は月曜日の平日ということもあり人もいないが、夏場などはそこそこに観光客も来るのだろうか。さらに道を東に進むと、伊予三島へのルートと新宮へのルートの分岐に来た。 往路は伊予三島から法皇墜道を通ってきたのだが、今回はこの国道319号をまっすぐ新宮・三好まで抜けようとしているのである。 国道だと聞いていたので走りやすいかと思いきや、実際、金砂湖に沿って走る道は1車線の曲がりくねった道で「酷道」であった。途中、一度すれ違いをしたが、ひやひやものだった。このころになると朝強かった雨が小康状態になり、青空まで見え始めた。 もしかしたら東赤石山に登ることができたのかもしれないと思い、途中携帯の入るところで(ほとんどの区間はAUは圏外の表示になる。)天気予報を確かめてみたが、この日の愛媛県四国中央市の予報は終日雨で夕方から曇りというものだった。 まあ、これならあきらめもつくというものだ。
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大歩危
10時すぎに馬立町を通過。 ナビの示すとおりに道の駅「大歩危」まで行く。 道の駅「大歩危」は施設の名前をラピス大歩危というらしい。川を挟んで対岸にはJRの線が通っており、1両編成のローカル列車が駅に入るのが見えた。駐車場は2段になっていて地下駐車場もある。 地下駐車場に車を入れると濡れることなくザックのパッキングができるので迷わずそちら側に停める。 登山靴の紐を締めなおして大歩危の遊歩道を散歩しようとす川底まで降りていくが、大きなクマバチに見つかってしまいこちらにやってきたので早々に退散。 雨も再び強くなってきたのでハイキングはあきらめる。車の横でEPIをつけて、湯を沸かし昼食。 結局帰りは飛行機なのでEPIのカートリッジは捨てていかざるを得ないが、湯を沸かして調理するのは2回しかなかった。 あたたかいカップそばとすき焼きにを食べてようやく落ち着く。
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小歩危
13時に大歩危を出てからは小歩危にも寄ってみる。 こちらは駐車スペースがよくわからなかった。予讃線の小歩危駅の真下の国道が少し大きな駐車ゾーンを作ってくれているようなのでそこに車を停めて歩いてつり橋「国政橋」までいく。戦後、小歩危にダムを建設する計画があったという。地元の反対により計画は中止となり、美しい峡谷が残っている。水の流れは大歩危に比べてゆるやかか。 小さな郵便局があり、その上の紅葉した山を雲が覆っている様子はなかなか絵になる光景だった。 大歩危を出てからは再び319号を新宮までもどる。 狭い道を通るのもだいぶ慣れてきた感じだ。
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石鎚山SA
新宮ICから高知道に乗り、川之江JCTを通り松山道を松山ICまで一気に走る。 法皇トンネルは長さ3.1km。 この高知道はトンネル42本の四国山脈の大縦断道路である。川之江JCTから松山道に入ると道は景観を異にする。 右手には瀬戸内の海が見えるようになる。 主には工業地帯である。 新居浜ICといよ西条ICの間を走るときにはかなり激しい雨が降っていた。 ちょうど、2日前の土曜日の朝に夜行バスの接続シャトルでここを走ったときと同じような天気である。 石鎚山SAで休憩する。 ここは石鎚山ハイウエイオアシスが利用できる。 椿交流館
椿温泉こまつもあるからここで風呂を使うこともできるのだが、これから、今日の一大イベントである道後温泉を訪ねる予定があるのでそれはスキップ。 会社へのお土産を買って伊予かんジュースを飲む。SAの裏手からは東予港を見下ろすことができた。
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道後温泉本館
松山道を西に向かって走っているときに、海の方向に大きな山が見えた。屋代島だろうか? 松山市内に入ってからは少し道が渋滞している。路面電車が走っている道路を車で走行するのはなれていないので、少々戸惑うことが多い。 道後温泉には駐車場を探して迷いながらも16:10に到着。 本館の隣の冠山の駐車場に車を停めて、ここから本館の全景の写真を撮る。 観光客の数は結構多い。 入り口で800円の神の湯と2階での休憩がセットになった券を買って入る。浴衣に着替えて、2階から階下の浴室に行くことができる構造になっている。 貴重品いれはないので、ここで100円を入れて貴重品ロッカーに預けていく必要がある。 東浴室と西浴室に分かれているが構造的に差はない。 折角なので両方を試してみた。ちょうど西浴室で自分が体を洗った湯栓の下には源泉の位置を示す表示があった。ここでは石鹸・シャンプーは備えられていない。 自分で持ってくるか、入り口の売店で買うしかない。 湯の温度は45度くらいで少し熱めであるが冷えたからだをあたためるにはちょうどよかった。 平日だというのに、仕事帰りのサラリーマンが次々のやってきてネクタイをはずして裸になり入浴していった。 そういえば、今日11月26日は「いい風呂」の日である。 |
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坊ちゃんの間
2階で休憩してお茶 とお菓子をお呼ばれしたあと、3階の「坊ちゃんの間」を見学させてもらった。夏目漱石が、松山中学の英語教師としてこの地をふんだのは、明治28年4月。そのころの道後温泉は、木の香も新しい建物であったことから、「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと3階に上がり、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるような始末、随分結構に御座候」と手紙で書き送っている。 ここには松山中学時代の漱石の写真と夫人の写真もも飾られている。窓の外には、地ビールを飲ませるしゃれたバーの看板が見えた。 思わず喉がなったが、まだ車を運転しなければならないのであきらめる。 外にでて商店街を少し歩いてみる。 椿の湯の場所も確認できた。 次に来るときはここにも入ってみることとしよう。
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松山空港
再び駐車場にもどり、衣類をザックにつんで、ひたすら松山空港を目差して走る。 ここから20分くらいか。3日間使ったヴァイオレットの日産Marchにたっぷりと給油をしてレンタカーの返却。 うっかりしたことにインテリジェントキーを自分のポケットに入れたまま返却してしまい、あとで空港で気がついた。警告音がならなかったのは、レンタカー事務所のカウンターに予備の鍵があるからだろう。残念ながら、飛行機は羽田からの到着が遅れたため、松山空港を出発するのも30分の遅延ということだった。 夕食を食べようと思ったがレストランはどこも19時でラストオーダーとなっており食べ損ねてしまった。 結局、チーズかまぼこをかじり、生ビールを飲んで済ませた。 20:20に搭乗。 気流が悪くてゆれたが、21:30に羽田空港に着陸した。 荷物が出てくるのを待って21:55のバスに乗り23:15に帰宅。 風呂に入ってすぐ寝た。
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四国遠征に最終日は、結局観光にて終わってしまった。 二百名山の名前を冠して記録にしては顰蹙を買うかもしれない。単に今回は登山口の偵察をしたにすぎなかった。東赤石山が単独で残ってしまったのは少し、まとめてピークハントをするには不利かもしれないが、言い換えれば、将来また再び計画をして実行する楽しみができたと言えるかもしれない。 銅山越えから縦走するのも悪くなさそうだ。 山は逃げないわけだから再会を楽しみに待つとしよう。
(2012年12月 記) |
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